Title:EP-4 "Lingua Franca 〜昭和大赦〜"(日本コロムビア,AF-7205,'83)
July 17.2007
京都の話をすこし。
精華に入学して数週間、何故か五月祭の実行委員に誘われた。
はっきりと記憶に無いのだが、とある河原町のカフェバー(死語)で実行委員長の方がバイトされていて、そこに顔出した事が始まりだったのか。まあチャラチャラ見えたんでしょう。誘われるがままに、お手伝いの日々が始まった。楽しかった記憶も辛かった記憶も特に無いのだが、唯一興奮したのはEP-4の『5.21』事件に携わった事だ。
とあるカフェバーとは、dee-bee'sという京都のニューウエーブ史に残る、伝説の店だった。店自体はファッションビルの4Fにぽつんと在り、特に広くもない、カシミールカレーが辛くて美味しい小綺麗なスペースだった。
但し其処にに出入りする顔ぶれはまさに梁山泊。YMO人脈からハナタラシまで。(山塚EYEの猫○しライブもここだった)。そこにEP-4のメンバーも何度か見かけたし、その流れで精華の五月祭でライブをする事になったのだろう。『5.21』事件の事件たる所以は、後々から伝説化したふしもある。アルバムリリースにあわせて、一日で京都〜名古屋〜東京の3箇所でライブを敢行する、その告知は「EP-4 5.21」と印字されたステッカーを何万枚とゲリラ的にばらまく。いわゆるタギング行為の様な、なんの事かわからない記号だけが都市の路上に貼られる。と、ここまで書いて、果たしてEP-4というバンドが世間的にはどのくらい認知されているのが疑問になってきた(笑)。
80年代初頭に白人がブラックミュージックのファンクネスを借りてリズムを強化、強調した音像が都市で鳴らされるというムーヴメントがあった。エスノ、ポリリズム、アフロ・ビート、こんなキーワードと共に勇気あるリズムの冒険が起こった。トーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」が最たる成功例であった。この空気を用いた、非常に「日本的」なファンクミュージックをやっていたのが佐藤薫率いるEP-4というバンドであった。
出所としては、70年代の松岡正剛〜工作舎〜「遊」等、霊的・オカルティズムmeetsダンスミュージックと言えば自分の中では解決がつく。細野晴臣のJB解釈より佐藤薫の黒人音楽マニアの度が強い分、フロアユースというか、そこには祝祭的な匂いも強くあったし、まあとにかく一言では言いにくい理屈っぽいジャパニーズ・ファンクをやっていた。僕が強く惹かれたのは日本人としての黒人音楽への劣等意識みたいなものが全く感じられず、情緒のようなものが漂っていた所だ。key以外演奏が巧いわけでは無いのだが、妙な高揚感とトランス感があって、ライブはなんか冷めた暴動チックというか、アジテーションというか、ちょっと狂った感じがあった。YMO周辺が持つ演奏の「巧さ」を妙に冷めた気持ちで(未だにですが)見ていた僕はショックを受けた。
そのEP-4が鳴り物入りでメジャーのレコード会社からリリースを予定していたのが1983年5月21日だったのだが、お上からの力がかかって急遽中止になる。その理由はサブタイトルが「昭和崩御」というものだったから。
このコピーがレコ倫から駄目が出たのは象徴に対しての不敬にあたるとの理由であった。その後、紆余曲折あって結局リリースされたアルバムのコピーは「昭和大赦」となるのだが、問題はその図版にあった。作家、藤原新也の「東京漂流」の中のワンカットで、雨戸の閉まった一軒の家、それは1980年に起こった「神奈川金属バット殺人事件」と呼ばれる一柳宅の写真だった。
今、メジャーのレコード会社のリリースでこの写真を使う術は無いのではと思う。当時だって不穏なもの扱いだった気がするけど、このアナーキーな感じ、あっけらかんとした虚無感は、むしろ潔く美しく見えるというと言い過ぎかもしれない。
今にして思えば、希代の策士という印象の佐藤薫という人物は、トリミングされた平成の現状を予測していたんじゃないか。国家の品格とは武士道を取り戻せばなんとかなる様なものでも無いだろうな。まあとにかく、校閲をくぐりぬけたこの写真から凶々しい昨今は始まっていると、ポンと膝を打つ気分だ。

EP-4/『Lingua Franca-1〜昭和大赦〜』(1983 日本コロムビア AF-7205)
精華に入学して数週間、何故か五月祭の実行委員に誘われた。
はっきりと記憶に無いのだが、とある河原町のカフェバー(死語)で実行委員長の方がバイトされていて、そこに顔出した事が始まりだったのか。まあチャラチャラ見えたんでしょう。誘われるがままに、お手伝いの日々が始まった。楽しかった記憶も辛かった記憶も特に無いのだが、唯一興奮したのはEP-4の『5.21』事件に携わった事だ。
とあるカフェバーとは、dee-bee'sという京都のニューウエーブ史に残る、伝説の店だった。店自体はファッションビルの4Fにぽつんと在り、特に広くもない、カシミールカレーが辛くて美味しい小綺麗なスペースだった。
但し其処にに出入りする顔ぶれはまさに梁山泊。YMO人脈からハナタラシまで。(山塚EYEの猫○しライブもここだった)。そこにEP-4のメンバーも何度か見かけたし、その流れで精華の五月祭でライブをする事になったのだろう。『5.21』事件の事件たる所以は、後々から伝説化したふしもある。アルバムリリースにあわせて、一日で京都〜名古屋〜東京の3箇所でライブを敢行する、その告知は「EP-4 5.21」と印字されたステッカーを何万枚とゲリラ的にばらまく。いわゆるタギング行為の様な、なんの事かわからない記号だけが都市の路上に貼られる。と、ここまで書いて、果たしてEP-4というバンドが世間的にはどのくらい認知されているのが疑問になってきた(笑)。
80年代初頭に白人がブラックミュージックのファンクネスを借りてリズムを強化、強調した音像が都市で鳴らされるというムーヴメントがあった。エスノ、ポリリズム、アフロ・ビート、こんなキーワードと共に勇気あるリズムの冒険が起こった。トーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」が最たる成功例であった。この空気を用いた、非常に「日本的」なファンクミュージックをやっていたのが佐藤薫率いるEP-4というバンドであった。
出所としては、70年代の松岡正剛〜工作舎〜「遊」等、霊的・オカルティズムmeetsダンスミュージックと言えば自分の中では解決がつく。細野晴臣のJB解釈より佐藤薫の黒人音楽マニアの度が強い分、フロアユースというか、そこには祝祭的な匂いも強くあったし、まあとにかく一言では言いにくい理屈っぽいジャパニーズ・ファンクをやっていた。僕が強く惹かれたのは日本人としての黒人音楽への劣等意識みたいなものが全く感じられず、情緒のようなものが漂っていた所だ。key以外演奏が巧いわけでは無いのだが、妙な高揚感とトランス感があって、ライブはなんか冷めた暴動チックというか、アジテーションというか、ちょっと狂った感じがあった。YMO周辺が持つ演奏の「巧さ」を妙に冷めた気持ちで(未だにですが)見ていた僕はショックを受けた。
そのEP-4が鳴り物入りでメジャーのレコード会社からリリースを予定していたのが1983年5月21日だったのだが、お上からの力がかかって急遽中止になる。その理由はサブタイトルが「昭和崩御」というものだったから。
このコピーがレコ倫から駄目が出たのは象徴に対しての不敬にあたるとの理由であった。その後、紆余曲折あって結局リリースされたアルバムのコピーは「昭和大赦」となるのだが、問題はその図版にあった。作家、藤原新也の「東京漂流」の中のワンカットで、雨戸の閉まった一軒の家、それは1980年に起こった「神奈川金属バット殺人事件」と呼ばれる一柳宅の写真だった。
今、メジャーのレコード会社のリリースでこの写真を使う術は無いのではと思う。当時だって不穏なもの扱いだった気がするけど、このアナーキーな感じ、あっけらかんとした虚無感は、むしろ潔く美しく見えるというと言い過ぎかもしれない。
今にして思えば、希代の策士という印象の佐藤薫という人物は、トリミングされた平成の現状を予測していたんじゃないか。国家の品格とは武士道を取り戻せばなんとかなる様なものでも無いだろうな。まあとにかく、校閲をくぐりぬけたこの写真から凶々しい昨今は始まっていると、ポンと膝を打つ気分だ。

EP-4/『Lingua Franca-1〜昭和大赦〜』(1983 日本コロムビア AF-7205)